踊りと憧れ 20230913
16時間も寝ると頭が整理され明晰になる。助かる。今日は反省して早くから書き始めた。
動静
在宅大睡眠
データ
体重 80.2kg
歩数 160歩
今日の一曲
TOKYO SQUARE / MIGMA SHELTER
MIGMA SHELTER - TOKYO SQUARE
作詞・作曲:タニヤマヒロアキ
MIGMA SHELTERとは
2017年4月16日、AqbiRec主催「Upstairs Down vol.1」(渋谷WWW X)にてデビュー。 ディレクター・田中紘治と、サウンドプロデューサー・タニヤマヒロアキによるアイドルユニット。新境地とも言える本格的なサイケデリックトランスは、多様化するアイドルシーンにおいて もカウンターとして強烈なインパクトを与えた。全曲をノンストップでつなぎ、ときにマッシュアップやMEGA MIXを繰り出すスタ イルから自らのパフォーマンスを“レイヴ”と称している。 (MIGMA SHELTER オフィシャルサイト, https://www.migmashelter.tokyo/pages/1947796/biography,2023/09/13閲覧)
サイケデリットランスを自称するとんでもない踊り狂うアイドル。
メンバー
- ミミミユ
- ブラジル
- タマネ
- ワニャ+
- ユイノン
- ナギムー
- スイミイ
- メリサ
俺たちの10秒(耳)
MVの通り高速道路を加速していくかのような疾走感。田舎だったら 100km/h 出る。こんなんお前ただの免停曲。違反金払う準備しといてください。
俺たちの10秒(MV)
ブラジルがセンターを妖しげににイエスキリストが如く、空間に磔にさせられながら動的に進んでくるという印象的シーン。序盤のレースのような美しさを持った音から電気的な音が加算され力強くなる。脳汁ビシバシを叩いて三途の川を渡りますわ。
以下ライブ映像
いいライブですね、非常に。観客側が楽しんでるのが映像越しでも伝わる。踊り狂うって電波の伝播が流石に素晴らしい行きたかった、呼んでよ!
当該シーンの前の立ち上がる音の時に、ミミミユが立ち上がる振りめちゃめちゃ綺麗や。
こんなにソロシーンでの笑顔が妖しげでかつ楽しそうなやつはブラジルだけ。
俺たちの10秒(歌詞)
**心揺らすだけのダンス バスキアに見る哲学**
俺さ、ミシェル見てからダンスしたくなって、踊りもどき踊ってんだよね。踊りとか音楽って今まで才能ある人たちがやる行為だと思ってたけど、俺みたいに才能ないやつでも、というか全人類が踊る、または踊り狂う瞬間があった方がいいと思うんだよね。美しいと思うんよ。なんで踊りに価値があるのかって考えると伝統的かつ非言語的かつコンテンツとしての情報量が膨大で、停滞していない表現手段だからだと思う。それこそ心揺らすじゃないけど、伝統的とか非言語的ってのは、あくまでも個人的に思ってることだけど、すごく衝撃力が強いと思うんよね。そういうものってのは、不便で、情報量が少なく、手間がかかる、でも、その真逆を目指す社会活動の渦中にあるからこそ、踊ることとかで、本質とか美しさを感じて、それを失わずにいれると思う。
だから、自室にダンススタジオみたいな大きな鏡が欲しいんだけど、金ない。社会は俺の敵。
バスキアって誰?と思ったので調べた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ジャン=ミシェル・バスキア
黒人と呼ばれることを厭いつつも、黒人としての文化を持っていたらしい。
この情報だけを見て考えた、俺なりの「バスキアに見る哲学」は、属性としての黒人と黒人であることは違う。つまり、他者からの同一性の指定と自身による同一性の指定は行為としての違いではなく、主体の違いでしかないが、そこに本質がある。何を ではなく 誰が が大事なこともあるのだ。黒人という属性の指定は社会的に大いなる意味を持つが、社会的にでなければ意味を持たないであろう。(思いつきだが、今ここに書いていること、つまりは言語も社会的でなければあまり意味を持たなそう。つまり、社会性または相対化というものが意味をまたは価値を持たせているのか。)
俺たちの10秒(繋ぎ)
人生で初めて繋ぎってものの面白さがわかった。明日は次のjointって曲をまとめて言語化してしまいたい。
16時間寝て思ったこと
体痛い、軽く鬱やな、何やってんだろ、ほんまは色々するつもりだったのに、まぁ疲れてたってことか、しゃあない
初夏初歌語録
16時間睡眠からの鬱で終わりでーす 19:17
急に回復して、好奇心に戻る このジェットコースターほんとに大丈夫か? 19:48
いや〜結局おもしろの方向性で迷っているに過ぎない 19:58
将来会えることになっている子供を喜ばせる方法で思いついたものを記録する
ぐだぐだ言うなよ
逆張り属性のせいで、一部の成功者の言葉が聞けないので、たまにダメなやつから猛烈に学んでる
躁鬱くん指数関数らしい(なぜ抑うつは指数分布に従うのか という本に興味)
自由記述欄
憧れについて
正直、一部の地下アイドルにめちゃくちゃに憧れてる。世間的には、地下アイドルは将来性がない、社会的地位が高くはない、収入が高いわけではない。競艇場で穴狙いで三連単突っ込むやつは大馬鹿だ、そしてつまらない。なぜなら、金というリソースは所詮自分に全て責任がいくものではないからだ。そして、それをやってる大体のやつは年金やらナマポか、金が余ってるやつだからかっこいいとは思わない。
地下アイドルのかっこよさは自分のリソースを確実に削っていることにある。人生っていう一回きりのものをしっかりと削っている。ここで想定される反論とすれば、顔がいい言わば才能でリソースが余ってる奴だからだろ、気づいていないからだろ、というものが浮かぶので反駁する。
顔がいいという才能はかなり不安定で、漸減することになっている。そして社会の多くの人間はそれを知っている。才能があるうちに使うという方向性であるなら、地下アイドルという使い方は非常に変な使い方である。なぜなら、顔がいいという才能は非常に便利であり、社会のどこでも使えるから、その中で地下アイドルを選択するというのは、アイドルへの憧れや顔への自信があるからであろう。
また、気づいていないというのも、一種の美点であると捉える。それだけ、アイドルというものに、ひいては自分の人生というものに没頭し、熱中しているように見える。
憧れの理由はここにある。アイドルへの憧れや顔への自信の強さ、人生への没頭、熱中、全て自分が持っているにも関わらず、中途半端であるため持っていないと言ってしまうような、自分の弱さみたいなものを感じる部分だからである。
以下、MIGMA SHELTERの憧れをみる。
ミミミユ
(Twitterで拾ったので出典でない)
彼女の本質に対して、フレームレートが足りていない、と思うことが多い。
https://x.com/MIMIMIYU_MGMSLT/status/1695775447190213055?s=20
内面が短期のうちに大きく変わるということは可能であるが、外見というのはなかなかついてこない、変化しにくいものであると思う。ミミミユはレイヴで踊っていると別人格になるという。実際彼女の動きを動画などで見ると、ステージの上では憑依的パフォーマンスをするが、その他の場所では少し抜けたような動きをする。ダンスについては素人であるが、無意識的にできてるんだろうなみたいな印象が強い、自由を感じる。 外見においては写真の通り目が違う。自分は目にはなかなかこだわって生きてきたつもりであるが、写真に自分の目が完全敗北したのは久方ぶりであった。その時の感想として、
「目など私の憧れる狂気は見せびらかさないが、それでも私は見せびらかすしかない 自らの美しさが敗北しないために」と しっかり敗北宣言が出ている。今はこいつに勝てないので撤退です。
とても面白いブログ(
)を書いていて、自分が書き始めた理由の一つ。めちゃくちゃ社会に対してではなく、事物に真面目な人なんだろうなと思う。踊り狂うを素直に表現したビジュアルをしていると思うし、めちゃくちゃ覚悟とかに関して話が合いそう。めちゃくちゃ勝手に似てるなと思いつつリスペクト。ただ、この人への感謝すべきこととして、「生誕の災厄」という本を教えてくれたことにある。
(https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784314011815)
生誕祭の情報が公開されました🎶 タイトル『生誕の祭躍』の元ネタはシオランの『生誕の災厄』という本です!お勧めだけど鬱気味の人が読むと希死念慮が増してしまうので感情移入せず他人事として読める人だけ読んでください😸 (https://migmashelter.amebaownd.com/posts/36672657:embed:cite)
逆説的に読むと、この人は感情移入して読んでいるのかしらと思った。私は今この本に一度敗北しているという状況にあるが、一部の人間にとっては抗うつ剤になると思う。全てに反論をするように読むのではなく、全てを他人事として、見下すように、冷笑的に読むとであるが。
反出生主義的なものに対して非常に弱い自分はまだまだ克服できそうにない、死にたくないのだろう。
三島由紀夫がこれを読んでいたら彼は市谷ではなく自宅のベットで首を掻っ切って、一人で死んでいたかもしれない。
自分のために生きるなんてことは、他人のために死ねるような種の人間にしか許されない気がする。自分は自分のためにしか死ねないのだから、他人のために生きるしかないのかもしれない。
明日死ぬように生きるなんてのは相当に簡単なことだと思う。明日首をつるなりなんなりすればいいだけなのだ。それよりも、永遠に生きるが如く生きつつ、絶対的死に向き会うということが肝要なのだと思う。
シオランにあえて捨て台詞を吐くとしたら、人間というのは自分のために生きて、自分のために死ぬほど弱くはないということだ。押し付けられた、または頂いた生を甘受し、罪と愛を認知しつつ生の押し付けをするということに人間の、生物の矛盾した美学があるように思う。
生誕の災厄が読めないことを敗北と認めつつも、この本を読み終わることがまだないのはちょっと嬉しい。
こんなことを考えさせてくれたブラジルに感謝だ。
ブラジル憧れ系だから、髪伸ばして、写真見たいなエクステつけたくなってる。